weeklyアキタミチコラム

九州産直クラブのカタログ連載中の畜産・農産コラムをまとめています!

15042nezasu vol.3 お乳をいただく牛と、お肉をいただく牛

 

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昔は庭先で1~2頭の牛を飼っていた、という話は、田舎に行くとよく耳にします。畑仕事の手伝いや肥料生産、非常時や祝い事の食料や資産として…?昔に遡れば遡るほど、仕事を手伝ってくれる牛は犬や猫以上に身近な存在だったかもしれません。今や都会っ子は、郊外の体験型牧場かふれあい動物園くらいでしか出会うことができないのでしょうが、生きた牛に出会うことが少なくなったとしても、昔に比べて牛肉の摂食量は増えているし、牛乳やヨーグルトも食卓の定番です。食の欧米化と共に、牛からいただくものは増えているのだから「もっと牛について知らなきゃいけないよな」と、この仕事をするようになって私自身も省みています。ということで、今週は知っている人にはあたり前!ですが、「牛」にまつわる農家の種類についてお伝えします。

 

「牛の絵を描いて!」と言われるとついつい身近に牧場などで見ることができる黒と白のブチ柄の乳牛を書いてしまいますが、牛乳を出してくれる牛を育てる「酪農」という仕事以外にも、肉としていただく牛を育てる「肥育」、肥育する前の子牛を出荷する為に妊娠牛を育てる「繁殖」という畜産農家のスタイルがあります。

産直クラブの自社農場『菊池農場』は、肥育農家でありながら、繁殖も行っている「一貫生産」の比率が高い数少ない農家ですが、大規模な肥育農家になればなるほど、分業してよく太りそうな子牛を仕入れて太らせ、立派な肉牛として出荷する技術だけで勝負しています。素人目には切ってみないとわからない生き物の「肉質」をエサの内容や与え方で調整する難しさと、あか牛であれば24ヶ月の肥育期間の間、毎日餌をやり世話をしてやるので、時間も手間もかかります。誰でもできる仕事ではないよな、と思ってしまうけれども、昔肥育農家として働いていた産直クラブスタッフI君によると…「肥育農家も大変だけど、酪農はもっとすごい。(あたり前だけど全部妊娠牛だから)牛の世話をしながら繁殖農家としての仕事もしなければいけないから、絶対大変だと思う(シリカファームの)ゆかさんとかは、年も近いのにホントすごいなーと思うよ」とのこと。野菜農家も畜産農家も生き物相手の仕事は、子育てみたいな思い通りにならない大変さの上に、お金をもらえる品質に仕上げる苦労があって、ホント頭が下がります。デスクワークにはない感動や喜びもあるから、ちょっとうらやましくなるときもありますけどね。

15039nezasu vol.2:ダシになる肉

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農家で働いていたときは本当に野菜しか食べていませんでしたが、流通業界で働くようになり(買える余裕が出てきたので) 少しずつ肉も食べるようになりました。それでも『菊池農場』などの自社畜産の取り組みに関心が持てるようになるまでは、自分で肉メインの食事を作ったこともなく、「肉はダシだ」と思って料理にミンチをちょっと入れたり、小さく切って使ったりする程度でした。だからこそ、何にも関心のなかった時代に「トライ●ル」で買っていた、地球の裏側ブラジルから輸入されているのに何故だ!と思うくらい安い鶏肉と比べて、手羽元ひとつで旨みが溢れる『紀州赤地鶏』や『きくち鶏』のおいしさといったら!!『走る豚』や『健康あか牛』のおいしさといったら!!世間的なお肉の価格と比べて安くはないのだろうけど、でも生きてきた人(?)生の厚みが、味として、ダシとして出ているのだと思えてなりません。

安い肉を食べていたときは、違いなんて考えたことがなかったのですが、いろいろ食べ比べてみると、価格帯ごとに味というのはかなり違っているので楽しくて、最近趣味で食べ比べをしています。私個人の感想ですが、味と価格の傾向として

 

おいしくない<①家畜臭的なくさみがある<②臭みはないが、味も薄い<③肉に味わいがある<おいしい!

 

という3段階に分かれるように感じます。牛乳と同じで、①の臭みは、食べ慣れていると最初はそれが「おいしい」と思えますが、比べて食べるとやっぱり飼育環境やエサにこだわって飼育している『走る豚』や『健康あか牛』のようなお肉が美味しい。私たちが食べるために育てているのだから、「おいしい」「おいしくない」で判断してしまうのは申し訳なくも思うのですが、生きている間だけでものびのびと生を全うできて、それを食べる人が「おいしい」と感じられるのならば、それを本当は求めているんだろうと思えて、ちょっとホッとします。

15036nezasu 新連載・畜産担当コラムが始まります 

 

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私が、まだ入社して1年もたたないピッチピチの頃。当時、畜産担当をしていた先輩社員に「どうして牛肉が豚肉よりも高いか知ってるか」と聞かれたことがありました。冷静に考えればわかる気もするのですが…その理由は「牛は出荷するまでに2年、豚だったら半年。餌代も何もかも、かかる経費が違うから」というもの。その時は、「なるほど~」ぐらいの感動だったのですが、今になってその差の大きさを感じています。

 というのも、フツウ私たちのような食品業界で「自社農場」といえば、野菜の農場ですが、私たちの「菊池農場」は、地元熊本で育てられてきた「あか牛」を太らせてお肉にする「肥育(ひいく)農場」。事業を始める前の段階でも、野菜であれば、畜舎を建てるなどの大規模投資も必要ないし、育てる牛を導入するコストだって、牛だったら何十万円の世界が、野菜だったら種代で(育てる量にも寄りますが)2~3万程度のもの。極めつけは、育てるために投資したお金が、売上として回収できるまでに、野菜だったら、早いもので種を撒いてから3ヶ月程度のところが、牛は冒頭にもあったように2年の歳月がかかること。野菜よりも高い値段では売れるけども、事業として畜産をやるなんて、資本力がある大企業にしかできないようなことです。

 でも、それでも「菊池農場」を続ける理由は、野菜同様に畜産業界も高齢化が進んだり、牛肉の輸入自由化などの影響で牛飼いが、どんどん減ってしまっていること。餌を外国に頼って、相場に翻弄されて…市場で評価の高い病気寸前?の霜降りの牛を育てることが果たして、私たちが求める食なのか…。食べる人と直接繋がっている私たちだからこそ、一緒に会員さんとそのことに向き合っていきたいと思っています。そのために、このコラムでは、改めて私が牛や豚(と育てる人)から学んだことを、皆さんにもお伝えできたらと思います。

 

15032 強制的節電生活

 

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夏本番。この原稿を書いているのは7月上旬ですが、ここ数日は大変ムシムシして、私もパソコンもうだる様な暑さです。会社としては、「パソコンのため…」ということで暑い日はクーラーを入れるのですが、それが原因でブレーカーが落ちて作ってきたデータが全部飛ぶ…という悲しい事態も夏の風物詩。暑さも年々異常な厳しさになっている気がします。

でも一方で、クーラーのある生活に慣れてしまうと、自分の我慢も効かなくなっている、という面もあるのではないでしょうか。仕事と家のことを同じように考えることはできませんが、私、個人としては、もっとシンプルに電気に頼らない生活がしたいと思いながら毎日過ごしています。

 

私が特に電気の使用量を気にするようになったきっかけは、東日本大震災。気持ちの中では原発反対でも、行動に移せていなかった自分を反省して、「まず自分から何か変えよう」と思い、省エネ生活を始めました。その時から実践しているのが「強制節電生活」。当時流行ったので実践された方もいらっしゃると思いますが、電力会社との契約アンペアを下げて、強制的に家庭で使う電気の量を減らす節電方法です。

すると、見えてくるのは冷蔵庫に洗濯機、パソコンにドライヤー、アイロンなど、電気でしか動かせない「電化製品」に、ものすごく囲まれていること。何も考えずにドライヤーを使えば、「バン」とブレーカーが飛んで停電します。何にたくさん電気を使うかがよくわかり、不便さはあるけれど、何かするときは何か消す、という習慣と、その面倒を回避する為に不要な家電はできる限り増やさないように、生活に必要なものを取捨選択する力が身について、少しずつ「電気に頼らない暮らし」に近づけている気がします。

無理な節電で体調を崩さないように注意が必要ですが、本当は人も野菜も暑さ・寒さに耐えられる能力が備わっているハズ。夏は水分とカリウムが豊富なキュウリやトマトやナスなどの旬の野菜の力を借りて、しっかり身体をクールダウン。自分の身体がもともと持っている力を、もっと活用できるように生きられたらいいなと思います。

15031 遺伝子の奴隷

 

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原稿を書くのに、何か口に入れてないと落ち着かず、自分でも良くないなと思いながら、どうしても間食がやめられずにいます。この夏もネージュのアイスキャンデーや新商品のメロディアイスにとてもお世話になっていて、食べ過ぎてお腹を壊すほど…。

そんな姿を見て先輩スタッフMさんから「遺伝子の奴隷だね」とご指摘をうけました。なんでも、人類の遺伝子には食べることに必死で何とか確保しようと思って生きてきた長い歴史があり、生きるためのエネルギーになる糖分や脂質を積極的に好むように組み込まれているのだとか。自分のカラダが必要としているかではなく、遺伝子の命令で機械的に「食べてしまう」。糖分や脂質を「無条件においしいと感じてしまう」。「“本能”だけで食べ物を選ぶと、そんなものばかり選んでしまうんだよ」というありがたいご意見でした。

そういうメガネで世の中を見ると、私に限らず人類は大なり小なり「遺伝子の奴隷」であるような気がします。スナック菓子やおかし、マヨネーズなどのわかりやすい糖分や油脂に限らず、果物の価値も糖度一辺倒だし、かぼちゃもさつまいもも小松菜やほうれん草まで、おいしさの表現は「あま~い!」。日本人だけとは言われますが、お肉も霜降りのとろけるような牛肉や脂がしっかりのったトントロが人気部位。気持ち悪くなるまで焼肉を食べる、という何のために食べているのかわからないような食事をしたりすることもあります。

では逆に、そんな遺伝子の声に囚われないで「本当に食べたいものって何か」を考えたとき、みなさんはどんな食べものを思い浮かべますか?

 

私個人を考えると、以前、私たちのお肉のアドバイザーであり、肉屋としてありとあらゆる肉を食べつくしてきた大誠食品の黒川さんが、走る豚のおいしさを「ずっと食べ続けられる味」と表現していたのが、まさしく自分にとっての答えかな、という気がします。齧ってすぐわかるようなインパクトのあるおいしさは、実はカラダを疲れさせるおいしさ。野菜も、ヘンに甘かったり、アボカドやナッツみたいに油っぽいものは、たくさんは要りません。野菜にとってちょうどいい季節に、のびのび育って、シンプルに食べたときに感じた「なんでもないけど、おいしい」というおいしさが、一番ホッとするし、身体が欲しているおいしさなのかなと思っています。そして、測ったわけではないけれど、そういう食べ物が人を健康にしたり、幸せにしてくれるんじゃないかな、とも思っています。

15029今までの水俣とこれからの水俣

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先日、水俣に研修に行ったときのこと。「食品問題の原点としての水俣を学び、新しく入社したスタッフが研修できる体制をつくろう」というミッションで、患者さんの家族や農家さん・患者さんを支援している方とお話してきました。

お話の中で象徴的だと感じたのは、原因企業が「チッソ」であることがわかり、患者や家族が集まって直訴しに行ったときのお話。「“チッソ”の中から出てくる人たちは都会の人なのかと思ったら、親戚だったり、近所の人だったり、みんな水俣の人だった。水俣の人同士の対立という構造にさせられていたのです」という言葉でした。災害は、人の安息の場所や仕事・カラダの自由を奪うつらい出来事ですが、水俣病原発事故のように、人が作り出した目に見えない毒、食べ物を通して起こした「人災」は、昨日まで仲良く話していた人といがみ合ったり、人と人との絆が崩壊させる、なによりも悲しい災害だと感じます。患者さんにとっても地域にとっても、決して「解決した」問題ではなかったことに衝撃を受けて、自分の「知らなさ」をすごく反省しました。

プラスティックを使ったことがある人ならば、必ず「チッソ」の恩恵を受けているし、電気を使ったことがある人ならば必ず「原発」のお世話になっている。被害者も加害者もない問題の中で、どうやってお互いを支えあっていったら、何を光明にがんばって言ったらいいのか…、でも、そんな大きな課題だからこそ、「水俣」という地域の取り組みが注目されているのだと思います。

今回の水俣視察では、水俣病の歴史をたどるだけでなく、たくさんの農家さんとも出会いました。今週の表紙でご紹介した紅茶生産者の天野浩さんや甘夏製品を出荷してくれる「エコネット水俣」さんなどの生産者の皆さんは、食べ物から生まれた病気だったからこそ、「ここで何を作るか」ということを問われて考えて「水俣だからつくれるもの」ということを大切に、ものづくりをしています。そもそも、原因企業となった「チッソ」が水俣に来たのも、豊な地下水が湧き出る地域だから。海の幸・山の幸に恵まれて、リアス式の入り組んだ海岸の影でイリコやシラスが育ち、小さな魚を食べる大きな魚が育ちます。それも、山からミネラルたっぷりの水が流れ込んでくるおかげ。公害問題に立ち向かってきた親の世代から、それを超えて「水俣」という地域の魅力や財産をどう世の中に伝えて広げていくかを考える第二世代へと生産も世代交代が進んでいました。共に歩み、人と人との絆を結びなおす方法を、一緒に見つけられたらと思います。

 

 

15027食卓を支える、という農業の役割

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5月下旬、熊本県内でも特に有機農業が盛んな山都町へ視察に行ってきました。私の住んでいる地域では、まだレンゲ草の片付けも終わっていなくて、田植えなんてまだまだ先!という時期でしたが、(山都町は比較的涼しい(=水が冷たい)地域で、稲の生育がゆっくりだから早く植えるのだろうと思いますが)早くも水田に水が張られて、田植えが始まっていました。

この仕事をするまでは意識したことがなかったのですが、田んぼの仕事は地域によって時期が決められていて、それは自分で決めることではなくて地域で決めること、というのが稲作が畑作と大きく異なる特徴ではないかと思います。なぜなら、一度田んぼに水が流れ込めば、自分の田んぼの入口をせき止めていても、周りの田んぼからの水が染み出して、他と同じように畑にするのは難しくなるし、逆に自分の畑だけ水を入れる、というのも、周りの田んぼに影響を与えてしまうので、難しいのです。

にんじんとゴボウ生産者の中村さんも、野菜の収穫が終わった畑を耕して水田にするので、「収穫を終わらせないと、田んぼに水が来てしまうからね」と毎年田植え前には寝る間もなく大忙し。自分の都合で好きな作付けができる畑作と違って、水田というのは「農業が地域と繋がっている」ことをより意識させる作物である気がします。

しかしながら、目に見えないだけで本当は同じ空気、同じ水、同じ微生物を共有しながら営まれるのが農業。『めぐみの里』の高鍋さんが「自分だけが有機農業をしていても仕方ない」と言ったりするのは、そういうことなんだろうと思うのですが、食べる側の私たちからすると見えにくい部分かもしれません。

「農薬を使わない・減らす」ということには絶対に普通作にはない苦労があって、すごいことなんですが、「うちは全く使っていないけれども、収穫量は普通作の1/100なんです。」という農家さんばっかりだったら、私たちの食をまかなうことはできません。自然に寄り添う農業をすることが同じ土や水の循環の中で生きる私たちにとって、最優先。ですが一方で、「食を支える」という大きな役割も担っています。有機農業は、どちらかというと「食を支える」という意識が薄い農家さんが多い気がするし、慣行農業は、地球規模での資源循環まで意識が回っていない気がする。

これから、安い外国産の食べ物が入ってきたときに、「国産」の食べ物がどう生き残っていくのか。国内の生産者さんは、どう生き残っていくのか。有機農業こそが「食を支える」役割をもっと意識しなきゃいけないと思うから、農家も技術を高めるとともに、食べる側も、もっと「その季節にとれるもの」で食卓をまかなえるように鍛えていかなきゃいけないなと思います。